帰省ブルー②

こんにちは。
心理セラピストの杉原京子です。

つい最近夏が始まったばかりと思っていたのですが、もうお盆ですね。
そして、今年ももう残り4カ月と2023年も3分の2が過ぎていることに改めて気づいて驚愕しています。

さてさて、今年はコロナ禍の規制も緩和されて、多くの人が今までの鬱積を晴らすかのように旅行にイベントにと出かけているかと思います。
お盆と言えば、帰省のシーズンでもあります。
前回(随分と前ですが)書いた帰省シーズンの憂うつさについて書きました。
帰省したら、親と直接関わることになり、幼少期に感じていた親への感覚がそのまま反応してしまい苦しくなり、できることなら帰省したくないなと思っていたり、帰省することに躊躇いを感じてしまうという内容で書きました。
https://making-my-way.com/2021/08/605/

今日は帰省シーズンに感じる憂うつ第2弾を書きます。

今回は「帰りたくても帰る場所がない」そう感じて苦しい人向けの記事です。

見ないようにしている気持ち

・親とは絶縁状態で連絡を一切取っていない
・親との間での問題に気づき自分から距離を置いている
・親が既に他界している

帰りたくても帰る場所がない」というのは、「物理的に会わない、会えない、帰省する場所がない」という意味です。
年末年始、ゴールデンウィーク、お盆休みといった長期休暇になると、ニュースで帰省ラッシュの映像が流れます。
また、友人や職場の人たちとの間でも家族旅行や帰省する予定を聞いたりした時、
「わざわざこんなに混んでいる時、高い時期に行かなくても…」と思いながらなぜか心がザワザワしていませんか?

お盆休みは
・どこも混んでて疲れるだけだしー
・暑いしー
・料金高いしー

そう言って

・涼しくて、お金もかからなくて、一番良いや!と言って、外出するのを避けてずっと家に引きこもる
・ここぞとばかりに予定をめいいっぱい詰めてずっと外出する

こんな風に自分のザワザワした気持ちに蓋をするかのように、言い訳をして自分の行動を正当化させていませんか?
では、こんな言い訳をしてどんな気持ちを隠しているのでしょうか?

「羨ましい」

というのも、家の中に引き籠こもることで、自分にとって不都合なものは見なくて済む、聞かなくて済んだからです。
つまりは現実を見たくない、目の当たりにしたくないという思いがあったからです。

人は何か光景を目にしたり、音を聞いたり、人と関わった時に心の中で何か反応が起こります。
その反応が感情や感覚を感じることなのです。
でもこの感情が自分の感じたくなものであったら、感じないように避ける行動をとります。

私の場合「家に引き籠ること=自分の殻に引き籠る」という行動をとったのでした。

では、どんな反応が起こっていて、どんな感情を感じないように避けていたのでしょうか?

求めても得られない虚しさ、孤独で惨めさを感じたくない

先ほど書いた私の中にあった感情
「いいな~、羨ましい。」

でもこの言葉を認めたくなかったのです。
認めてしまったら、私は独りぼっちで寂しい。孤独な自分をありありと感じてしまうからです。

「だからそんなこと思ってない!」と言葉で本音をかき消して「何も感じてません」、「平気です」と嘯いて平気なふりをしたり、現実を見ないように避けていたのです。

ですが本音は、
・家族という形があって羨ましい
・お母さんと2人で出かけたかったな
・家族で一緒の時間を過ごしたかったな
・親孝行したかったな

こんな思いがありました。

ですが幼少期の家族が
・いつも家族はバラバラ。
・家族はいるのにいないような気配だけある

このような感覚で育っていので、
・家族がひとつに集まる
・人がちゃんといる
・「家族」という形になっている

よその家族はあんなに仲が良さそう、楽しそうなのになんで家の家族は…
あー、羨ましい。。。

 

本当は私もお母さんに会いたい、出かけたい、一緒にいたい。
でもそれが出来なくて悲しい、寂しい。

 

幼少期からどんなにお母さんを求めて、求めて、求めても
お母さんからは拒否や否定近づこうとしたら、すぐに去って居なくなってしまう。
ずっと避けられている私は、お母さんにとって

「迷惑な存在なんだ」
「嫌われているんだ」
「いつも独りぼっちなんだ」
「そんな私は惨めな存在なんだ」

求めても得られない虚しさと共に、

・虚しさ
・淋しさ
・惨めさ
・悲しみ
・怒り

だから外に出て仲の良さそうな家族や親子を見ると、
「私はお母さんから避けられている、いつも孤独だ」という現実と感覚をありありと感じてしまうのです。

大好きな家族、特にお母さんから避けられる、否定されるって本当に悲しいことです。
それに子どもは一人では生きていけないので、孤独を感じるというのは死ぬほどの怖さを感じます。

不安と恐怖が生きる上でのベース

「居場所のなさ。私には帰る場所はない」

どこにも帰る場所(実家)がないのだから、「大きな失敗をしたら全てを失ったら、実家という帰る場所がないのだから失敗が怖い」と物凄い認知の歪んでいたので、いつも「何もしない」で家に引き籠るということを選んでいました。

それぐらい、私の心は不安定で安心感がなかったのです。
親との間で愛着が築けなかったのでここに居てもいいんだ」、「自分は存在していいんだという、自分の中に安心感や自己肯定感がなく、いつも不安だったのです。
それを埋めるかのように外に安心感を求めても本当の安心感は得られないし、求めても無駄だ、得られないと諦めて引き籠もり(心を閉ざして殻に閉じこもっている)状態でした。

いつも孤独で恐怖と不安でいっぱいで精神が不安定だったのです。

本当の問題とは

幼少期の家族はバラバラだった、私は親から避けられていたし、居場所の無さを感じていたのは事実です。
求めても得られなくて感じた虚しさや傷つき、いつも孤独で寂しい思いをしてきたのも事実です。
だからこそ、本当はとても人を求めていたし、家族を持つ事を求めていたのです。

自分から求めにいったら、断られたり、拒否されたりするかもしれないですが、受け入れてもらえるかもしれません。
それは、あなたが一緒にいたいなと思う相手は親ではないからです。

このザワザワの本当の問題は、これほど淋しくて人を求め、自分で家族を作ることを、また傷ついたり虚しさを感じるのが嫌だからと諦めて自分の殻に閉じこもっていることです。
殻に閉じこもっていたら傷つかなくて済みますが、一生求めているものは手に入らないし、孤独なままです。

現実を見ていない人は、自分の感情や欲求から逃げていて見ないようにしていると共に、自分の周りには拒否しない、受け入れてくれる人がいるという現実も見ていないのです。
自分の殻に閉じこもるということは、ずっと妄想の世界にいるのと同じことで、過去の世界を生きています。
心の中の時計が過去で止まったままです。

止まった時計を動かすことができるのは自分だけ

何かを避けるという行為は、安堵感は得られても安心感は得られないです。過去のたくさんの傷は心に痛みをもたらし、二度と傷つきたくないと思うのも当然ですが、それでは一生自分の殻に引き籠って孤独でいることになります。
幼少期に築き損ねた生きる上でのベースとなる安心感(愛着)を自分の心の中で育て、現実的な実家は無くとも心の中に実家のような安心感(ベース)を磐石にしていくことで自分から人を求めてパートナーや家族を持ったり、友人と楽しく過ごすことができたり、一人でゆっくり過ごしたいなという時も、孤独で惨めだという感じず、ただただ一人の時間を楽しんだりできます。

そしたら、もう自分の殻に閉じこもる必要もなくなっていきます。

現実世界を生きるとは、自分の心の中の止まった時計を動かして現在を生きることだと私は思います。

あなたの「心の中の時計」は動いていますか?

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